沖縄で「屈辱の日」と呼ばれる日がある。昭和27年、サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日だ。日本が主権を回復した日だが、沖縄や奄美群島、小笠原諸島は本土と切り離され、米軍の統治が続いた。このため、沖縄でそう呼ばれるようになった。
沖縄が悲願の本土復帰を果たすのは47年5月15日である。政府は4月28日を「主権回復の日」とし、平成25年に式典を開催した。一方、沖縄で復帰の日を祝う雰囲気はほとんどなく、地元メディアでは「屈辱の日」がクローズアップされている。
琉球新報は、4月28日を「米国への追従が始まった日でもある」とし、同27日付の社説で「『軍隊は住民を守らない』という沖縄戦の教訓とともに『屈辱の日』の歴史的経緯を再確認したい」と主張していた。
平成11~18年に沖縄県副知事を務めた牧野浩隆さん(84)は「米軍統治下に置かれた時代を『温故』として明確に認識することは重要だが、『知新』がなければ単なる懐古主義に過ぎない」と語り、こう続けた。
「4月28日を『屈辱の日』と名付けたのは復帰協だった」
復帰協とは昭和35年、沖縄教職員会を中心に結成された「沖縄県祖国復帰協議会」のことだ。島ぐるみの運動が展開されたが、本土の安保闘争などと連動して次第に革新色が濃くなり、運動は激化していく。
米軍基地の「即時・無条件・全面返還」。復帰協が43年に掲げたスローガンである。基地の全面返還が困難と分かると、沖縄返還に合意した44年の日米共同声明や、46年調印の返還協定にも強硬に反対した。