ドラマ部長時代の愛すべき破天荒な上司のこと 2s5s3j

川口 大竹しのぶをテレビ小説に起用した時の話なんだけど、彼女はまだ17歳かなんかで、かわいい子だったんだよ。演技力抜群でね。こんなすごいのか、とわれわれは驚嘆していた。それで彼女を起用することに決めて、上司のところへ写真だけ持ってって「これを今度のテレビ小説の主人公にします」と言った。 4k222f

そしたら、当時の上司の堀総局長※が「何だ、このネエちゃん。こんなのが主役でできるか」なんておっしゃるんだよね。ぼくはムカッとして「それは堀さん違います。あなたね、写真だけ見てものを言ってるから。われわれはちゃんと演技をさせてそれを見て、テレビへの柔軟性もみて、これは主役に絶対いいと思って起用するんだから、ここは私どもの目を信頼して下さい」と言った。

※堀 四志男 報道畑出身の放送総局長。「ニュースセンター9時」の生みの親のひとり。

それでまあ「しょうがねえな…いいよ」ということになった。

それが、第1回の放送が終わったら、彼は深々と私に頭を下げたんです。「川口君、俺が悪かった。俺の目は節穴だ。あの子はいいなあ。大竹しのぶってのは大物だなあ」って言うんだよね

久野 謝れるところがいいですね。

川口 そうです、そうですよ。特に日本人の男性は自分の沽券に関わるから、謝らずに屁理屈をつけてああだこうだというもんだけど、あの人はそんなことは絶対に言わない。言わないうえにね、大きな体でしょう。身長180センチぐらい、体重80キロぐらい、もっとあったかな、その大きな体をパーッと縮めて…。「川口君、俺が悪かった」。それはね、愛すべきキャラクターですよ。

そこをまた、僕は小器用に利用してね、まんまと予算をせしめたことがあるんですよ。ドラマ部長の頃、「お前のところはあんまりいいドラマを作らねえな。俺は民放のドラマの方がよっぽど好きだよ」とおっしゃるから「堀さん、そんなことおっしゃるなら、私に金を下さい」。

「何だよ?」
「2000万円下さい!」
「何すんだ?」
「4人の脚本家に500万円ずつ先渡しして、それで書いてもらうんです。今の時代、いい作家はそうたくさんいないから、できる作家には思い切って先渡しする。500万円あったら、作家も安心して書けるから、そういうふうにしたいんです」
「合わせて2000万円か」
「はあ、そうです」
「よし」

ってんで、すぐ経理担当を呼ぶんだよな。

「…川口の言うとおり、2000万円出してやれ」

それで、大作家でもない、まだ新進作家ですらない、でもこれから伸びてくると感じていた4人の作家にお金をつぎこんだ結果、グッと良いドラマが出来たと今でも信じてます。その時の作家4人が誰か、覚えてるけども言わない。これを言うと、何だあの時はそういう作家だけに渡したのか、俺には回ってこなかったぞ、という人がいるからね。その人選はやっぱり僕の好みですから。

久野 やっぱりいちばん最初に作家を大事にする?

川口 そうですそうです。あと僕はもう一つ、作家のシリーズものをやりたかったんです。ドラマ作家というのは、名前だけは出るけど、いつもタレントなんかの下に甘んじてるでしょう。だから「山田太一シリーズ」※ とか、倉本聡のシリーズとか、そういう作家の名前を冠したシリーズを作りたいと思ったんです。

 ※土曜ドラマ・山田太一シリーズ「男たちの旅路」(1976年~1982年)など。

それは実現しました。だからこの二つは、私がしたことの中では、ちょっとユニークで、しかも効果があったクチでしょうね。作家もそういうふうにしてやると非常に感奮興起しますよ。

久野 そりゃそうですね。安心しますしね。

川口 安心する。さらにそこで名前が出ると、必然的に民放にもパーッと売れるからランクは高くなるしね。事前に手を打ってた500万円が利いてくるわけですよ。

外部プロダクション発注事始め 3yv2e

久野 番組制作を外部に開放なさったのが川口さんからですよね。

川口 そうです。だって、NHKのドグマは「NHKの人が一番いいドラマ、番組を作る」というドグマですよ。そんなことはないじゃないですか。制作会社というものが出来てから、彼らが作る番組のレベルは相当高いということを僕は確信していたんです。それでNHKでも外に制作を発注して開放しなきゃと思っていて、テレビマンユニオンの、この前亡くなった萩元さん*と話をして「萩元さん、NHKがあなたがたに番組を委嘱したら、受けてくれるかね」ときいたら「喜んでやりますよ」と。

 ※萩元晴彦(1930~2001)TBS出身。1970年に制作会社「テレビマンユニオン」を村木良彦(1935~2008)、今野勉(1936~・放送人の会・現会長)らと設立。後述する大原れいこも創立メンバーの一人。

ただ当時は、そう簡単に行かないんだよね。第1回めは失敗しちゃったんだ。何かというと、小沢征爾さんが棒を振って、中国でブラームスをやるというんですよ。ブラームスが中国で鳴り響いたという番組をやりたいと萩元ちゃんがいうから「いいねえ、やりましょう」と。

そう言って帰ってきて、制作局長だから偉いんだけど、みんなに相談したら、「そんなのだめですよ。テレビマンユニオンなんかまだ力ないですよ」てなことを言うんだよねえ。それでポシャっちゃった。そのときまだ早かったと思うのは、NHKの中で、いわゆる「外注問題」というのがあった。堀さんも、おそらくそのことを気にしたんだろうな。堀さんに持ってったら「まだ早いや、NHKの番組を外注するのは」とおっしゃってポシャりました。

結局この企画はテレビマンユニオンが作ってTBSで放送した。大原れいこさんの演出で「北京にブラームスが流れた日」※ というタイトルだったと思う。NHKでやるはずだったのにな、と思ったけども、そういうことがありました。

※TBS、1978年7月23日放送。

僕はそれ以来ずっと、民放系の制作会社に番組を作ってもらって、NHKで放送するのは絶対良いことだと確信してたんです。それで、会長になった時に断固としてやるぞと言ったら、会長はやっぱりいちばん偉いもんで、ああいいですよとなって…。

僕が民放の社長だったら、視聴率のシの字も言わない社長になりたいな。それからNHKでも、いわゆる制約はないんだから何でも出来るはずで、僕がかつて言ったように、タブーだろうと何だろうと面白いと思うものをやってみろ、という積極的な仕掛けをやってみたい。そうするとテレビ屋は、それぞれ自分のセクションで「よし、じゃあ、やってやろうか」と思うんじゃないかと考えるんだけど。

この頃の世の中はあまりにも、いろんな点で制約が多くなり過ぎた。多くなり過ぎてみんな結末がわかっちゃう。こうやるとこうなる、ここでこうやるとこういうことが起こってきてこうなる。やっぱり30年40年と経験してると、みんな分かっちゃうでしょ。経験してるだけに、どこかで控えてしまうとこがあるんじゃないですか。

何もなかった昔は、それが分からねえから、やみくもに飛び込んでいったんだけどね。今またそういう時代じゃないでしょうか。うん。僕はもういっぺん、制約なしで何でもやってみろということを、民放もNHKも言うべきだと思いますね。そうしたら面白いですよ、もうちょっと。

<本インタビューは、2002年3月1日収録>

川口 幹夫(かわぐち・みきお)氏の略歴

NHK会長(1991年~97年)、放送人の会初代会長(1997~2001)。

1926年、東京生まれ、幼少期を鹿児島で過ごす。旧制七高(鹿児島大学の前身)を経て東京大学文学部卒。
1950年NHK入局後、福岡放送局赴任。その後一貫して音楽・バラエティ畑を歩む。「紅白歌合戦」、「夢であいましょう」などのディレクター、プロデユーサーを務める。
1970年ドラマ部長に就任、「大河ドラマ」「連続ドラマ」などで新進気鋭の作家を起用し話題になる。また「ドラマ人間模様」枠では「夢千代日記」、「あ・うん」など放送史に残る名作を送り出した。
1986年にNHK交響楽団理事長に就任ののち、91年第16代NHK会長に(15代は島桂次氏、17代は海老沢勝二氏)。会長時代にはラジオの24時間放送を実施し「ラジオ深夜便」の充実を図った。
2014年11月没

【放送人の会】
一般社団法人「放送人の会」は、NHK、民放、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に関心をもつ人々が、個人として参加している団体。
「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めている。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしている。

【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版Webマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。