独特な一本差しグリップから放つ「ジェットドライブ」や、ロビングからのカウンターバックハンドスマッシュなど、絵に描いたようなスーパープレーで世界を魅了した長谷川信彦。 運動能力が決して優れていたわけではなかったが、そのコンプレックスをバネに想像を絶する猛練習を行って世界一になった「努力の天才」であった。【第1回から読む】 3y4qr
※この記事は月刊卓球レポート2002年12月号を再編したものです
左利きへの苦手意識
さて、目標とする全日本チャンピオンになるために、信彦はどうしても越えなければならない壁があった。それは「左利き」選手である。
信彦は左利きの選手に弱かった。サービスを持ったときは良かったのだが、レシーブのときが全然だめだった。高校時代にインターハイで敗れた関東商工高校の石井や、東山高校の岡田が左利きだった。
大学に入ってからずっと練習していた西飯も左利きだったのだが、それでも左利きの選手に対する苦手意識は消えなかった。11月に行われた全日本学生選手権大会の決勝戦でも、隻腕で左手1本でプレーする北村(専修大)に敗れて優勝を逃してしまった。
そして、信彦が全日本選手権大会で優勝するために一番のライバルと考えていた木村も左利きだったのだ。
左利きの選手は、バック側への短いサービスと、フォア側への長いサービスとを混ぜて出してくる。信彦はバック前のレシーブが苦手でそこを徹底的に狙われ、ツッツいたボールをバックに攻められて崩れてしまうのだ。
だが、北村に敗れて試合を反省するうちに、対左利き選手の戦い方が思い浮かんできた。今までレシーブでは、バック前とフォアのロングサービスとを、五分五分の気持ちで待っていた。しかし、相手の出してくるサービスを分析すると、バック前に8割以上の確率で来ることに気がついた。信彦の得意な技術はフォアハンドのドライブで、相手もそれはわかっているのだから、気がついてみればそれは当然のことであった。
信彦はフォアサイドを捨て、100パーセントバック前にサービスが来るものと思ってレシーブすることにした。バック前のボールに対して、しっかりフォアで回り込んで払って得点することができれば、フォアに来る残り2割を相手に得点されたとしても十分勝てる、と考えたのだ。
早速、バック前のボールをフォアで回り込んで攻める練習をたくさんやることにした。そして、左利きの選手とゲーム練習をたくさんやることにした。そして、左利きの選手とゲーム練習をするときにその戦術を試すと、非常にうまくいくではないか。しかも、バック前のボールに不安がなくなると、不思議とフォアのボールにもうまく飛びつける。
「よし、これで対左利きの対策はわかった。後はしっかり練習するだけだ」
いざ、全日本
12月、全日本選手権大会で信彦は一般の部に初出場。1年前のジュニアの部では惨敗していたが、そのときと違って直前までしっかりと練習し、心・技・体ともばっちりだった。
「よし、まずはベスト8まで勝ち上がるぞ」
そう目標を立てて、試合に臨んだ。
絶好調の信彦は特に苦戦することもなくベスト8に進出した。特に5回戦(ベスト8決定戦)では、ライバルの1人である河野に3-0と勝利。好調さの表れだった。そのまま勢いに乗り、準々決勝、準決勝ともに3-0と圧勝し、ついに決勝戦を迎えた。
決勝戦の相手は予想通り木村興治。木村は社会人4年目。しかし、その力は学生時代から落ちておらず、6年連続ベスト4(うち2回優勝)という抜群の安定度である(当時は学生の方が全日本での優勝が多かった)。
信彦は11月の初めに行われた全日本選抜大会では準決勝で木村に負けていた。
「でも、あのときとは違う。左利き対策をしっかりやってきたんだ。今の自分は1カ月前とは違うんだ」
決勝戦が始まる直前、信彦は対木村作戦を考えた。
「ドライブも、バックも、サービスも全部木村さんの方が格上だ。レシーブも練習したけれどまだ完ぺきとは言えない。なんだ、結局木村さんに勝てる技術なんて1つもないじゃないか」
信彦は冷静に2人の技術を比べるうちに、自分には勝ち目がないことを悟った。
「でも、いいんだ。尊敬する木村さんとこれから試合をするんだ。自分の持っている技術を100パーセント出し切ろう。そうすれば勝てるかもしれない。今の自分にできることはそれだけだ」
信彦は謙虚な気持ちで試合に臨んだ。
「相手を尊敬し、その相手に自分の力をすべて出し切る。それが礼儀なんだ。このときはそのことをすごく感じた。だからいい試合をすることができたんだ」
全日本史上最年少チャンピオン
決勝戦が始まった。木村は信彦のドライブを封じようと、なるべく台から離れずに、ショートで左右に揺さぶる作戦をとってきた。信彦はこの作戦にはまってじりじりと点差が離れていき、1ゲーム目は16-20と先にゲームポイントを握られてしまった(編集部注:当時は1ゲーム21ポイント制)。
信彦が「何とかしなくては」と思ったそのとき、木村の顔にホッとした表情が見えた。
「これはチャンスだ。あきらめずに攻めていこう」
信彦はそう思い、少しくらい厳しいボールも、とにかくフォアで攻めていった。攻めて攻めて、気がつくと22-20と1ゲーム目を先取していた。
第2ゲームも序盤から同じような気持ちで攻めていった。やはり勢いがあったのか、このゲームも23-21と何とか取ることができた。
そして第3ゲーム。このゲームも序盤からよく攻め、7-3とリードした。だが、ここで「もしかしたら勝てるかもしれない」という思いが信彦の頭をよぎった。そうなるととたんにミスが怖くなった。今までの攻めの気持ちがどこかに消え、ボールを入れにいくようになってしまった。結局その甘くなったボールを木村に攻められ、16-21でこのゲームを落としてしまった。
信彦はベンチに戻り猛烈に反省した。
「勝ちを意識したら絶対だめだ。できるだけ無心でやるんだ」
フォアにボールを集めてバックに強打を打つ作戦を、頭の中でしっかりと確認した。
第4ゲーム、信彦は無心で攻めた。しかし、木村も全日本優勝2回と百戦錬磨である。お互い一歩も譲らない先手争いから、強ドライブ対強ドライブ、スマッシュ対ロビングの長いラリー戦になった。1球ごとに観客の大きな歓声と拍手が起こる。このときのラリーは「史上最高のラリー」と報道された。

そして、20オールから長谷川が1点取り、ついにマッチポイントを迎えた。
「次のサービスは、木村さんのフォア側にナックル性サービスを出そう」
台上プレーのうまい木村に切れたサービスを出すと、変化のあるツッツキをされ、先に攻撃できなくなると考えたのだ。信彦は思いっ切り切ったふりをして、切らないサービスを出した。さすがに木村もこの場面では、安全に入れよう、と判断したのかツッツいてきた。予想通りに返ってきたそのボールを、信彦は大事に、心を込めてドライブをかけた。そのボールを木村がミスした瞬間、信彦の優勝が決まった。長谷川信彦18歳、史上最年少(当時)の全日本チャンピオン誕生である。

天にも昇る気持ちだった。優勝カップを持ちながら、母のうれしそうな顔が見えた。勝った喜びを、兄たちと一緒に応援に来ていた母にすぐ伝えた。母は「よくやったね。おめでとう」とだけ言って、涙を流していた。
このときも、信彦の脳裡(のうり)には夜遅くに編み物をする母の姿が浮かんでいた。子どものころからずっと「体が弱いのにすごい母親だ」と思ってきた。
「これでやっと恩返しができた」
だが、優勝を決めてしばらくたった後、信彦をとてつもない不安がおそった。
「全日本チャンピオンになったということは、自分はこれから日本のエースとして、世界一を目指して世界で戦わなければいけないのか。自分にそれができるんだろうか? 世界一になるということは、世界一の練習や、世界一のトレーニングをしなくちゃいけない。それに世界一苦労しなきゃいけないんだ」
こう考えると、先ほどまでのうれしさはどこかへ行ってしまった。(次回へ続く)
Profile 長谷川信彦 はせがわのぶひこ
1947年3月5日 ー 2005年11月7日。愛知県瀬戸市出身。
1967年世界卓球選手権ストックホルム大会男子シングルス優勝。
一本差し右シェーク攻撃型。快速ドライブとバックスマッシュ、ロビングで18歳で全日本制覇。20歳で世界制覇。全国優勝29回、アジア優勝20回、世界優勝5回。